「スポーツ根性論、精神論の限界」 格闘技ドクターが語る、本当の「強さ」とは
練習をすればするほど結果が出るはずという誤解「人間の身体は消耗品である」
こうした背景にはいったい何があるのでしょうか。
そのひとつは練習量だけを重視する考え方です。朝、誰よりも早く仕事場に来て、遅くまで残業する人がいちばん偉いというような「総時間」が基準になってしまっているケースです。世界クラスの有名選手になる、オリンピックに出場する。そのためには早いうちから大人と同じような練習を始めることで、才能が開花するという誤解があります。多くの人が「早い段階から練習をやればやるほど結果が出せる」と思い込んでいます。ライバルはこんなにたくさん練習しているのだから、こちらはもっとやるべきだと考えてしまうんですね。
幼稚園児・小学生の段階で無理を重ねた結果、中学生(ジュニア)の段階で選手としてのピークがきてしまい、身体へダメージが蓄積した結果、スポーツ競技自体を断念せざるを得ない子どももいます。いつの間にかライバルではなく、自分の怪我の痛み、苦しみと戦うことになってしまう。そうなると本人はもちろん、家族も辛い思いをします。好きなのに続けられない。これはスポーツ文化にとっても大きな損失ではないでしょうか。
練習を重ねれば結果は出るはず、という誤解から解放されるために大切なのは、「人間の身体は消耗品である」という認識です。スポーツの練習やトレーニングは身体への負荷です。負荷をかければかけるほど、関節や椎間板はすり減っていきます。ボクサーが目にパンチをもらっても、ラガーマンがタックルのたびに脳に衝撃を受けても、「たくさん食らった方が目が強くなる! ぶつかればぶつかるほど脳が物理的に強くなる!」ということはありません。人間の身体の弱い部分はいくら鍛えてもそのままです。筋力や技術は練習やトレーニングを重ねることで上がっていきますが、それでさえも回復には適度な休養や栄養が必要不可欠です。
また人間を理解することも大切です。例えば東大に入る学生の多くはピアノで脳の違う部分を活性化させていたり、勉強した後すぐに睡眠をとって記憶を定着させていたり、趣味や運動に徹底して時間を割いたりしていたという研究結果があります。東大生の多くは決して勉強ばかりやっていたわけではない、勉強の総時間だけがモノサシではないという証左でしょう。
言うまでもなくスポーツが与えてくれる感動やパフォーマンス向上の過程で得られる充実感は素晴らしいものです。プレーヤーが可能性を最大限に開花させるためには、消耗品である身体を壊さないように上手に守りながら、スポーツだけではなくもっと広い視点で人間としての能力を拡大していくという考え方へのシフトが求められます。
では、どのように考え方をシフトしていくべきでしょうか。今回お伝えしたいのは「ダメージ・マネジメント」の視点です。「A. 高負荷でダメージが蓄積しやすい練習」「B. 低負荷でほとんどノーダメージの練習」に練習内容を区分けします。Aの時間を最小化しながら、Bの割合を増やしていくのです。
Aはフィジカル的に苦しいため、耐え抜けば脳内でドーパミンが放出され、満足感も得られやすい。それゆえ「勝利というゴールから逆算した練習」から「これを乗り越えたら勝てる」に変容しやすくなるリスクがあります。少しでも勝利に近づきたいからとAばかりやっていると、身体へのダメージが蓄積されていきます。
Bはフィジカル的にAより楽なので「練習した気がしない」方も少なくないのですが、世界のトップレベルで活躍する一流選手はBで「脳が汗をかくくらい」脳のイメージと実際の動きの修正に時間を投下しています。運動とは脳の前頭前野で想起された運動イメージを神経回路と筋の収縮を介して具現化する作業ですから、針の穴に糸を通すような、より繊細で高度な感覚が必要とされます。
一流選手は本を読んで新しい考え方をインストールする、試合や動画を観て脳のミラーニューロンを活性化させる、映画やパフォーマンスを観て自分のフィールドに置き換えてみる、といった「一見練習には見えない練習」も大切にしています。