不振を機に「明るい色柄のスポーツブラを着けるように」 アンダーウェアでも変わる女子選手のパフォーマンス
「〇〇をやらなきゃいけない」の考え方に囚われていた北京五輪まで
5歳でスノーボードを始めた鬼塚選手は、小学1年で初出場となる国内大会でいきなり優勝。以降、「天才スノーボード少女」と騒がれました。
15年の世界選手権では、大会史上最年少となる16歳3か月で、女子スロープスタイルで優勝。18年の平昌大会で初の冬季五輪出場が決まると、メダル獲得への期待が高まりました。
しかし、平昌ではビッグエアで8位、スロープスタイルでは19位で敗退。思うような結果を残せず、一転、北京大会までの4年間、苦しむことになります。
「北京までは常に『〇〇をやらなきゃいけない』『〇〇をするべき』という考え方に囚われていました。
私は性格的に、目の前のことに集中し過ぎたり、細かいことを気にし過ぎたりしてしまうんですね。競技においてそれはプラスに働く場合もありますが、北京大会まではすべてがネガティブに働いてしまいました」
平昌大会後は休みも返上。プレーヤーとしてのネガティブな要素を探しては一つひとつつぶしていく、という『作業』を、毎日、繰り返しました。次第に調子のよい大会でも粗を探すようになり、自分自身を追い詰めました。
「例え成功したことがあっても、ダメだったところしか目がいかず、自分で自分を褒められなくなっていました。マイナス点を潰す作業も大事です。でも、今日は何をすべき、明日は何をすべきと、小さいところばかり見すぎて、目標を失ってしまった。
また、大会前は気持ちが落ち込みやすくなり、次第に大好きだったスノーボードが楽しく感じなくなりました。五輪でメダル獲得どころか、本大会を目指せるかどうかという状態でした」
22年、北京大会を迎えてからも、状況は変わりませんでした。「次こそ、次こそ」。最高のパフォーマンスを見せるどころか、1本終わるたびに修正点をつぶすことで頭がいっぱいでした。