「相当戦いましたね」 バレーボール女子代表監督・中田久美が決めた覚悟
現役時代は中学3年生、15歳で日本代表入り。16歳でセンタープレーヤーからセッターに転向すると、以後10年以上にもわたり、日本を代表するセッターとして活躍。五輪とワールドカップはともに3度、世界選手権には2度の出場経験を持つ。現役引退後は海外でコーチ修行を積み、Vプレミアリーグでは2012年、久光製薬スプリングスを監督就任1年目で、皇后杯全日本バレーボール選手権大会、V・プレミアリーグ、黒鷲旗全日本選抜大会で優勝。女子チーム初の3冠に導いている。選手としても指導者としても、経験・実績ともに十分過ぎる中田が選ばれたのは、自然な流れだったのかもしれない。
東京五輪を見据えた期待とプレッシャー「でも、だからやらなければいけないな、と」
2016年10月25日。日本バレーボール協会理事会は満場一致で、女子日本代表監督に中田久美を選出した。
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現役時代は中学3年生、15歳で日本代表入り。16歳でセンタープレーヤーからセッターに転向すると、以後10年以上にもわたり、日本を代表するセッターとして活躍。五輪とワールドカップはともに3度、世界選手権には2度の出場経験を持つ。現役引退後は海外でコーチ修行を積み、Vプレミアリーグでは2012年、久光製薬スプリングスを監督就任1年目で、皇后杯全日本バレーボール選手権大会、V・プレミアリーグ、黒鷲旗全日本選抜大会で優勝。女子チーム初の3冠に導いている。選手としても指導者としても、経験・実績ともに十分過ぎる中田が選ばれたのは、自然な流れだったのかもしれない。
当然ながら、2020年に開催される東京オリンピックを見据えた監督選考だ。日本代表を率いるだけでも責任は大きいが、ましてや目指すは自国開催のオリンピック。百戦錬磨の中田でも、大役を引き受けるには覚悟がいったという。
「相当考えました。やっぱり国民の皆さんの期待とかイメージとか(がある)。前回の東京(五輪)では『東洋の魔女』として金メダルを獲った競技なので、やっぱり期待の大きさはすごくプレッシャーになりますね。でも、だからやらなければいけないな、と」
1964年に開催された前回の東京オリンピックでは、大松博文監督の下、「東洋の魔女」と異名をとった女子日本代表が金メダルを獲得。空前のバレーボールブームを巻き起こした。その翌年に生まれた中田は、当時の盛り上がりは実際に体験していない。だが、女子日本代表の系譜を継ぐ者として、何度も金メダルに挑戦したが掴めず。1984年のロサンゼルス五輪で銅メダルを手にしたものの、頂点に立つ難しさは痛いほど知っている。
「そういう歴史があるから今があると思うので、しっかりと繋いでいかないといけない」
覚悟を持って代表監督に就任してから約3年。これまでの日々を「早かったですね」と振り返る。
「時間は足りないですね。私も指導者として日の丸をつけて戦うのが初めてだったので、何が何だかさっぱり分からず(苦笑)。本当に、相当戦いましたね。環境を整えるために。当初は正直、『これで東京オリンピックを戦うのか?』っていう状態でした。やっぱり特別なオリンピックじゃないですか。競技にかかわらず日本のスポーツを大きく変えるチャンスだと思うので、東京オリンピックだからやらなければならないこと、できること、伝えられること、変えられることが、私はあると思うんです。それを何とかしたいなという思いで、皆さんにご協力していただきながら、戦いながらやっています」