

文 大西マリコ
写真 落合直哉
ヘアメイク 長谷川真美
各競技のトップ選手たちによって結成されたアスリート集団「Team Seiko」。日本記録保持者も多く名を連ねる少数精鋭のチームに、さらなるビッグネームが加わった。世界陸上実施種目の女子1000m、5000mを筆頭に13もの日本記録を保持する田中希実だ。日本中長距離界の先頭を走り続ける女王が、2025年からTeam Seikoの一員として新たなスタートを切る。
陸上一家に生まれ、幼い頃から両親の背中を見て育ち、世界で戦うトップアスリートへと成長を遂げた田中。25歳ながらすでに世界陸上には3大会、世界の大舞台には東京、パリと2大会連続で出場を果たしている。そして、世界陸上のオフィシャルタイマーを務めるなど、陸上競技と深い関わりを持つセイコーとともに新たな一歩を踏み出すことになった。Team Seiko加入をきっかけに、田中がどのような価値を創造し、多くの人々に感動を届けていくのか。その素顔と想いに迫った。
陸上一家で育ち、中長距離種目で見つけた自分らしさ

幼い頃から陸上漬けの日々を過ごしてきた田中にとって、「走ることは自らのアイデンティティだった」と語る
写真 落合直哉
陸上競技を始めたきっかけを教えてください。
両親ともに陸上関係者で、特に現役のマラソン選手として活躍していた母の影響は大きかったですね。幼い頃から母の走る姿を見て育ち、自然と地元のロードレースに参加するようになりました。中学での部活選びも、自然と陸上を選んでましたね。実は私、運動神経はあまり良いほうではないんですよ……。球技も苦手で、走ることしかできなかったのですが、だからこそ自分のアイデンティティでもある走ることを伸ばしたいという気持ちが強かったですね。
中距離種目、特に1500mをメインにされているのはどのような理由からですか?
高校1年生の時に1500mで自己ベストを出し、国体でも優勝という結果を残しました。元々は高校で駅伝がメインの部に入ったので長距離種目への転向も視野に入れていましたが、結果が出たことで「1500mにより力を入れていきたい!」と思うようになりましたね。シニアになってからも記録を更新し続け、幸運なことに日本記録も更新できました。1500mで着実にステップアップを遂げられたので、その次は世界での勝負を意識するようになりました。

速いペースを維持した走りが田中の特徴であり、中長距離種目を戦ううえでの大きな武器と言える
写真 フォート・キシモト
田中選手の走りを拝見していると、レースを通して常にスピードを維持している点がすごく印象的です。ご自身の強みについてどのように分析されていますか。
レースにおいて一定のスピードを維持できる点は、私の特徴です。特に1500mでは、最初から最後まで速いペースを保って走れます。スピードを維持する能力は元々の持ち味として備わっていたので、それを活かしてシニアでも戦えるようになってきた点は収穫です。一方で、初速が遅いことは私の課題でした。課題克服のためにスピードを磨いてきたので、トップスピードまでの切り替えが早くなりましたね。
2023年からはお父様である健智(かつとし)さんが専属コーチとなり、二人三脚での体制になりましたね。親子関係ならではの良さや難しさもあるのではないでしょうか。
父が競技していた時の感覚と私の走りの感覚が非常に近いことは大きな強みです。父は私の走りを見るだけで、自身の経験と照らし合わせて状態を把握できるため、的確な練習メニューを組み立ててくれます。それが私に合っているからこそ、結果も出やすく、調子を大きく崩すこともほとんどありません。親子だからこそ、とことん話し合えることは良い点です。一方で、コミュニケーションがストレートになってしまうこともあります。必要以上の言葉が出てしまうこともありますが、それも含めて親子ならではの関係性なのかもしれません。
時を刻む会社・セイコーと共に。新たなステージへの挑戦

セイコーゴールデングランプリ陸上2020東京で、田中が当時の日本記録を更新したのはセイコーのタイマーだった
写真 フォート・キシモト
Team Seikoについてもお伺いします。まずは加入おめでとうございます!お聞きしたところ、田中選手にとってセイコーは、幼い頃から身近な存在だったそうですね。
そうなんです。セイコーと言えば、陸上競技場のスタートとゴールにある大きなタイマーですよね。実は父が計測の仕事に携わっており、幼少期に大会運営を手伝った際に間近でセイコーのタイマーを見てきました。選手として大会に出るようになってからは、1500mの日本記録をセイコーのタイマーで刻めたことは良い思い出です。セイコーという会社は、私の陸上人生においてずっと並走してくれる頼もしい存在だと感じています。
そんな思い出深いセイコーのチームの一員となった今の心境をお聞かせください。
まさか自分がTeam Seikoの一員になれるとは想像もしていなかったので、驚きと同時に大きな喜びを感じました。ブダペスト2023世界陸上の大会後に、セイコーのメディアである「HEART BEAT Magazine」の取材を受けました。その際に、世界陸上大会運営の舞台裏のドキュメンタリー映像を見せてもらったのですが、会社としての理念に強く共感したことを鮮明に覚えています。
大会の主役である選手、オフィシャルタイマーとして選手のパフォーマンスを支えるセイコー、大会を観戦するオーディエンスの存在が三位一体となって世界陸上のような大きな舞台が作られている――舞台裏を支える側の視点を表現するセイコーがすごく素敵だと思いましたし、私も選手として「一緒に何かしらを表現していきたい!」と感じましたね。
日本語版:Documentary of SEIKO TIMING TEAM(ブダペスト編)

田中の陸上人生においてセイコーは常に隣を並走する存在だった。Team Seiko加入にも感慨深さを覚えたようだ
写真 落合直哉
セイコースポーツファンリーダーのたむじょーさんとも親交が深いと伺いました。
たむじょーさんとは、私が1500mで日本記録を出した時に、「女子1500m日本記録と全く同じペースで走る事はできるのか?田中希実選手の記録に挑戦【陸上】」という動画をアップされていたのがきっかけです。私も動画を見たのですが、すごく面白い人だなと思いました(笑)。その後、ホクレンの大会に出場した際にインタビュアーとしてお会いしました。さらに母がSNSでたむじょーさんとつながるようになり、ケニアでの合宿を一緒に過ごすことになるなど、不思議な縁を感じています。気分が沈んでいる時でも、彼の言動を見ているだけで元気が出てきますね。
Team Seikoには山縣亮太選手はじめ、多くのトップアスリートが所属していますが、メンバーの印象についてはいかがですか?
山縣選手は昔からアスリートとしての考えがカッコいいという印象がありました。特に自分自身で考えながら競技に取り組む姿勢がすごいと感じています。山縣選手にお会いできたら、長く競技を続ける中で得た“確信”についてぜひ聞いてみたいです。私自身、まだ競技への不安が大きい部分があるのですが、山縣選手は何かを信じて続けてきたからこそ今があると思うので、そのきっかけや考えを知ることで競技の参考にしたいです。
Team Seikoの一員として、今後どのような活動をしていくつもりでしょうか。
アスリートとして新しい価値を創造し、多くの方々に感動を届けていきたいと考えています。そのためのパートナーとしてセイコーとご縁があったことを、とても心強く感じています。Team Seikoへの加入はゴールではなく、むしろここからがスタートです。競技面での活躍はもちろん、さまざまな形で陸上競技の魅力を伝えていけるよう、精進していきたいと思います。
一問一答インタビューで知る、田中選手の素顔

陸上に対してストイックであることで知られる田中。食に関しては意外な一面も
写真 落合直哉
まるで哲学者のように陸上選手としての自分を突き詰めて考えるストイックな田中だが、一方でプライベートではどのような素顔が秘められているのだろうか。知られざる一面を掘下げるべく、一問一答インタビューを実施。陸上編とプライベート編の2つのテーマで率直な思いを語ってもらった。
【陸上編】
陸上をやっていてもっとも楽しいと感じる瞬間はいつですか?
自己ベストが出た時です。練習でも試合でも、過去の自分を超えられたと実感できる瞬間がもっとも楽しいですし、何より嬉しいですね。陸上の醍醐味は、「自分との戦いに勝利すること」だと思っています。
競技中はどのようなことを考えていますか?
最近はフォームのことを意識して考えていることが多いですね。時計の歯車のように、1つの動きが全体に連動していくような理想的なフォームを目指しています。しかし、レースが進むにつれて疲労も出てくるのでフォームが崩れやすくなるだけに、そこからは技術だけでなく精神力での戦いになります。
試合前や、前日のルーティーン(ゲン担ぎ、習慣)はありますか?
特別な勝負飯のようなものは決めていないのですが、最近はオニオングラタンスープが好きで、よく飲んでいます。フリーズドライを海外遠征にも持って行くようにしていますが、必ずしも毎回飲むというわけではありません。食べ物はなるべく好きなものを食べたり、飲んだりするようにしています。
レース前にメンタルやモチベーションをどのように維持していますか?
食べ物で気分が変わることはありますね。たとえば、予選でのタイムにとても落ち込んでいたとしても、決勝の朝にパンケーキを食べたら不思議と気持ちが前向きになることもありました(笑)。「ああ、美味しい!」という気持ちから自然と笑顔になれて、パンケーキを食べたことがきっかけで、自分への安心感につながった経験もあります。

読書や美術館巡り、工作など多彩な趣味を持つ田中。見つめる視線の先にはどんな景色が映っているのか
写真 落合直哉
【プライベート編】
読書好きで知られていますが、本を読むことが好きな理由を教えてください。また、最近読んだおすすめの本はありますか?
読書をしていると心が落ち着きます。本の世界に入り込むことで気持ちをリセットできるというか。紙の質感や匂いも含めて、本そのものも好きですね。読書タイムは心が穏やかになる大切なひとときです。最近は、『銀河鉄道の父』という本を読みました。宮沢賢治さんのお父さん目線で書かれた小説です。飛行機で映画を見たのがきっかけで興味を持ちました。とても印象に残る作品です。
お家の本棚の様子も教えていただけますか?
まだ読めていない本も多くありますが、お気に入りの本はきちんと本棚に並べています。紙の質感や香りが好きで、背表紙を見るだけでも気持ちが上がりますね。インテリアとしての役割も果たしてくれています。
趣味については、他に何かありますか?
最近はあまりできていないのですが、以前は工作が好きで、ミニチュアを集めたり作ったりすることを楽しんでいました。ドールハウスの小さな家具や、人形用の小物類など、すべてが魅力的です。もし時間に余裕があれば、また作りたいと思っています。
休日の過ごし方を教えてください。
時間に余裕がある日は、美術館に行って好きな展覧会を見ることもあります。ただ、何も予定がない日は家でゆっくりと過ごすことが多いですね。
食べ物の好みについて教えてください。
和食より洋食、特にイタリアンが好きです。パスタやピザはもちろん、前菜もすべて美味しくて。イタリアに行った時は、本場のレバーパテやトリッパ(モツの煮込み)なども楽しみました。スイーツではシュークリームが特に大好きですね。
たくさんの質問に答えていただき、ありがとうございました!最後に、今後の目標についてお聞かせください。
2024年にパリで行われた世界の大舞台では1500m、5000mの両種目とも決勝に残れなかったので、今後は単なる決勝進出という目標だけでは不十分だと感じています。本当の意味で世界のトップ選手とラストまで競り合える選手になりたいです。今は世界との勝負にまだ怖さを感じる部分がありますが、同じレベルで戦える実力をつけ、その勝負を楽しめる選手になることを目標に掲げています。
そして、東京2025世界陸上は、新たにTeam Seikoの一員として臨む大きな舞台となります。同大会ではアスリートアンバサダーに就任しましたが、その役割を全うすることに加え、選手として本当の意味で大会を戦い抜き、東京2025世界陸上の"登場人物"として記憶に残る活躍をしたいと思います。

陸上競技・中距離選手
田中希実
1999年9月4日、兵庫・小野市生まれ。ランニングイベントの企画・運営をする父、市民ランナーの母に影響を受け、幼い頃から走ることが身近にある環境で育った。中学から本格的に陸上を始め、西脇工高(兵庫)に進学。同志社大を経て、豊田自動織機へ。2023年4月にNewBalance所属アスリートとして プロ転向。2021年東京五輪1500mで日本人初の8位に入賞するなど、複数種目で日本記録を保持する。趣味は読書。好きな本のジャンルは児童文学。とりわけ現実世界に不思議が入り混じった「エブリデイ・マジック」が大好物。