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日本スポーツ界が断ち切るべき“負の連鎖” 選手を追い込む「勝利至上主義」と美談

「左足首を故障していたけど、代わりがいないのでピッチに立ち続けた。とても人道的とは言えなかった」――イビチャ・オシム(元日本代表監督)

オシム氏もかつては左足首を故障しながらもプレーし続けた【写真:Getty Images】
オシム氏もかつては左足首を故障しながらもプレーし続けた【写真:Getty Images】

かつてはサッカーでも認められていなかった選手交代

「左足首を故障していたけど、代わりがいないのでピッチに立ち続けた。とても人道的とは言えなかった」――イビチャ・オシム(元日本代表監督)

 1960年代後半の旧ユーゴスラビア代表は、素晴らしいタレントを揃え、1968年の欧州選手権で快進撃を見せた。当時の欧州選手権では、決勝大会に進めるのはわずかに4カ国。ユーゴスラビアは、2年前のイングランド・ワールドカップで準優勝のドイツを下してベスト4に進出。イビチャ・オシムは、その中心選手の一人だった。だが当時の世界チャンピオンであるイングランドと対戦した準決勝では、左足首を故障。とてもプレーができるような状態ではなかったが、ピッチに立つことになった。

「誰も代わりがいないので無理をしてピッチに立ったが、ただそれだけで何かできるような状態ではなかった。故障した箇所にブロック注射を打つと、酷く腫れ上がったのを覚えている。とても人道的とは言えなかった」

 それでもユーゴスラビアは、終了4分前に往年の名ウインガー、ドラガン・ジャイッチの決勝ゴールで勝利するが、もはやオシムが再び決勝の舞台に立つことは不可能だった。

「麻酔注射を打つなど、あらゆる手段を講じたが無理だった」

 オシム不在のユーゴスラビアは、決勝のイタリア戦を0-0で引き分けるが、2日後の再戦で0-2と力尽きた。

 かつてはサッカーでも一度ピッチに立った選手は、どんなに傷ついても最後までプレーすることになっていた。しかし選手のコンディション、健康などを考慮し、1953年に負傷した場合に限り2選手まで交代できるルールが設定されると、その後改正を重ねて現在の形へと変わっている。

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加部 究

1958年生まれ。大学卒業後、スポーツ新聞社に勤めるが86年メキシコW杯を観戦するために3年で退社。その後フリーランスのスポーツライターに転身し、W杯は7回現地取材した。育成年代にも造詣が深く、多くの指導者と親交が深い。指導者、選手ら約150人にロングインタビューを実施。長男は元Jリーガーの加部未蘭。最近、選手主体のボトムアップ方式で部活に取り組む堀越高校サッカー部のノンフィクション『毎日の部活が高校生活一番の宝物』(竹書房)を上梓。『日本サッカー戦記~青銅の時代から新世紀へ』『サッカー通訳戦記』『それでも「美談」になる高校サッカーの非常識』(いずれもカンゼン)、『大和魂のモダンサッカー』『サッカー移民』(ともに双葉社)、『祝祭』(小学館文庫)など著書多数。

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