インタビュー

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インタビュー

「金メダルで恩返しを」 ソフトボール界の天才打者が持ち続けた想い

「目標を見失った」山田選手の競技生活を支えた恩返しの想い

 あの興奮が東京で蘇る。2020年の東京オリンピック・パラリンピック競技大会の追加種目として採用が決まったソフトボール。2008年の北京オリンピック以来、3大会12年ぶりに復活することとなった。

「辞めなくて良かった」――。心からの感慨を込めてもらしたのは、ソフトボール界の天才打者、“女イチロー”との異名をもつ山田恵里選手だ。北京オリンピックでは主将を務め、金メダル獲得に貢献した。投手なら上野由岐子投手、そして打者なら山田選手。2003年に初めて日の丸を背負うようになってから16年。長きに渡って打者としてソフトボール界を牽引してきた第一人者は、2年後へ向けて今何を思うのか。

 2016年8月3日――。2020年の東京オリンピックの追加種目として採用が決定。山田選手は、その瞬間の心情を改めて振り返った。

「何度か復活のチャンスがあると言われていましたが、復活できなくて……。正直辞めようと思ったこともありました。辞めなくてよかった。復活してすごく嬉しく思いました」

 短い言葉の中に、実感を込めた。2008年の北京オリンピックを最後にソフトボールは世界的な普及度が高くないなどの理由によって、オリンピックの正式種目から除外された。最大の目標にしてきた晴れ舞台が消滅。一度はバットを、グラブを置こうとした。それでも、辞めなかった。続けられた理由は何だったのか。

「一番辛かったのは2009年、2010年の北京オリンピック以降の2年間ですね。目標を見失ってしまった。そんな状況で続けられたのは、応援してくださる周りの方々に支えられて、ここまで来られたのを感じたからです。もう一つはオリンピック種目からなくなっても、小学生、中学生、高校生とソフトボールを続けている人はたくさんいて、そういう人たちのためにも頑張らなければいけないなと思いました」

 自分のことだけを考えるなら、辞めていたのかもしれない。だが、周囲への感謝の気持ち、そしてソフトボール界への恩返しの想いが、競技に踏みとどまらせてくれた。

「リーグ戦(日本ソフトボールリーグ)をこなしていく中で、たくさん応援してくれる方がいることを強く感じました。辛かった2年間はずっと、もやもやしていたというか、気持ちが入らないというか、何のためにやっているのかがわからない状態が続いていました。北京オリンピックのメンバーはオリンピック以降ほとんどがソフトボールを辞めてしまった。また次のオリンピックが目標としてあるのなら、続けていた人もいたと思うのですが、(除外されて)気持ちの変化があった人が多かったのかなと思います。だけど私は(復活の)可能性は0ではないと思っていた。どこかで信じていた。10年間続けてきて本当に良かったです」

「もともとプレッシャーが好き」自国開催の重圧を力に変える

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 自国で迎える2020年の東京オリンピック。喜びはもちろんあるが、それを上回るものがあるという。プレッシャーだ。

「自国でのオリンピックは経験できることではないので、国民の皆様に感動してもらえるような試合をしたいなと思います。ただ楽しみよりはプレッシャーの方が大きい。応援してくれる方がたくさんいる分、結果を出さないといけない。金メダルを期待されると思います」

 野球と共に、待望の復活。国民の期待は当然のように大きい。その重圧に、山田選手は真っ向から立ち向かう。

「もともとプレッシャーが好きといったらなんですが(笑)。どちらかといえばプレッシャーがかかったほうが結果を出せる。逆にやりがいがあります。そういうプレッシャーを味わえるのもソフトボールを続けているから。楽しみに変えていければ良いと思っています」

 プレッシャーとワクワクする気持ち。2つの感情の間で揺れ動くことができるのも、ここまでソフトボールを続け、待ち望んでいたオリンピックへの返り咲きが現実のものとなったからだ。思い返せば、2008年の北京オリンピックの決勝戦。これ以上ないというプレッシャーがかかる場面で、山田選手は金メダルをぐっと引き寄せるソロホームランを放っている。

「今でもたまに思い返したりはします。打てた要因はいつも通りの打撃ができた結果。あの試合でアメリカは焦りが見えていた。(その様子を見て)絶対に勝つと思った。その前のアテネオリンピックでは銅メダルだったので、そこからの4年間、どうやれば勝てるのかを学んで努力してきたので、すごく自信があった。いつも通りの日本のソフトボールができた結果だと思います。いかに普段通りのやり方ができるかが大事です。普段の意識の仕方で変わってくる。そこで常に金メダルを頭においた生活をしていく必要があります」

 小学校1年生で野球を始め、中学校3年生までは男子に交じって白球を追った。中学校では男子を押しのけてレギュラーだったが、神奈川県立厚木商業高等学校からソフトボールに転向した。

「野球では高校から(女子が)公式戦に出られないということを知って、野球ではなくてソフトボールがあると当時の顧問の先生に教えてもらいました。それで、ソフトボールの試合を観に行きました。最初は野球と比べて弱々しいイメージがあったのですが、実際に観るとレベルの高さ、スピード感に圧倒されました。そこからすぐに入部を決めました。野球とは(バッテリー間の)距離も違って、最初はボールがバットに当たらなかった。慣れるまでには数か月かかりました。たまたま入部したのが、強いチーム。日本一を目指すというチームだったので、その中で活躍していきたいと自然に思うようになりました」

 気付けば、ソフトボールの魅力に取りつかれていた山田選手。チームのインターハイ連覇に貢献するなど、才能が花開いていった。同時に夢であった“オリンピック“というものが、いつしか明確な目標へと変わっていった。

「ソフトボールがオリンピック種目にあるということを知ったのは2000年のシドニー大会でした。当時は高校2年。将来はオリンピックに出たいと思ったのを覚えています」

「胸に刺さった」イチロー選手のある言葉とは

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 高校卒業後に入社した日本リーグの日立ソフトボール部でも、そのたぐいまれなバッティングセンスですぐに頭角を現した。ルーキーイヤーに本塁打王、打点王、ベストナイン、新人賞とタイトルを総なめ。2003年から日本代表にも入り、左打席から繰り出す巧みな打撃は、いつしか“女イチロー”の異名で知られるようになった。“女イチロー”と呼ばれることを自身はどう捉えているのか。

「野球をやっていた中学2年の頃にイチローさんが200本安打を達成して、当時は“振り子打法”とかをマネしていました。憧れの人と同じように言ってもらえるのは光栄です」

 打ち方を真似し、イチロー選手の考え方も勉強。名言集「イチロー 262のメッセージ」も熟読した。

「本を読むのは苦手なのですが、イチローさんの本は北京オリンピック前に読みました。プレッシャーとの付き合い方はすごく勉強になりました。『プレッシャーは醍醐味だ』。その言葉が一番胸に刺さりました。『重圧からは逃げられない。どう付き合っていくか』と書いてあって、なるほどなと思いました」

 そんな山田選手には夢がある。イチロー選手のように、子どもたちから憧れられる存在になることだ。

「何か良い影響を与えられるようになりたい。周囲から憧れられる存在でありたい という思いがあります」

 影響を受けた試合は、中学校3年生の夏に訪れた甲子園球場。目の前で繰り広げられていたのは、横浜高校とPL学園の伝説の延長17回の死闘だった。

「松坂(大輔)選手と上重(聡・現アナウンサー)さんの投げ合いを甲子園で観ました。あの試合を観られたのはすごいなと。あの試合を観て、大観衆の中でプレーができるのは、素晴らしいことだと思いました」

 5万人の大観衆の視線を一身に集めての歴史に残る大熱戦。こんな注目された中で試合がしたい――。あの時に願った思いは、2020年に現実のものとなる可能性は十分にある。

集大成となる舞台、「1日1日が勝負」

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 もし、ソフトボールのオリンピック種目への復活が実現しなかったなら、山田選手はまた別の人生を歩んでいたのかもしれない。

「もし、復活がなければ、どうなっていたかはわからないですが、そんなに(ソフトボールを)長くはやっていなかったのかなと思います。(2020年は)集大成という思いは強いです。なので、1日1日が勝負。高い意識を持ちながらやっていきたいです」

 2年後に迎える東京オリンピック。集大成という思いで臨むからこそ使命がある。次世代のソフトボーラーへ、残さなければならないものがある。

「試合の中でプレーを通して、ソフトボールはこんなに面白いんだということを伝えたい。それが自分自身にできることかなと思います。私はソフトボールに育ててもらった。ここまで近くで支えてくれていた人のためにも、金メダルをとって恩返しをしたい」

 2020年東京オリンピックの後も、ソフトボールがオリンピック種目としてしっかり根付くためには、さらなる競技の普及・発展が必要だ。選手が自らの活躍でソフトボールの魅力を伝えることはもちろん大きな力となるが、競技環境の整備や若手選手の育成も欠かせない。スポーツくじ(toto・BIG)の収益による助成金は、地域スポーツ施設の整備といったハード面から、次世代選手の発掘・育成、スポーツ教室や大会の開催といったソフト面まで、ソフトボールの普及・発展につながる様々な活動をサポートしている。山田選手は競技の第一人者として、これらのサポートに感謝している。

「ソフトボールは、専用球場がほとんどない状況です。そんな中でもスポーツくじ(の収益による支援)は環境整備をして下さっている。そういう力をお借りしないと競技は成り立たないので、ありがたいなと思います。子どもたちがソフトボールをする環境がなかなかないので、そういう環境がもっと広がってほしい。そういう場所で日本代表の選手が子どもたちと触れ合う機会が増えれば、裾野も広がっていくと思います」

 また、8月2日から12日まで、千葉県内で行われた第16回WBSC世界女子ソフトボール選手権大会にもスポーツくじ(toto・BIG)の収益による助成金が活用されている。

「皆さんに協力していただいて大会が成り立っている。自分もこうしてソフトボールができている。感謝の気持ちを全力で伝えていきたい。子どもたちも観に来てくれて、あの選手のようになりたいと思ってもらえるようなプレーをしていきたいと思っています」

 日の丸のため、そしてソフトボールの未来のために、ジャパンが誇る最高のヒットメーカーはこれからも打ち続ける。

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山田 恵里やまだ えり

1984年3月8日、神奈川県生まれ。日立ソフトボール部に所属。ポジションは外野手、左投左打、身長165センチ。
小学校で野球を始め中学校まで野球部に所属。神奈川県立厚木商業高等学校入学と同時にソフトボールを始める。2000年、2001年のインターハイ優勝に貢献。2002年に日立製作所入社。ルーキーイヤーに本塁打王、打点王、ベストナイン、新人賞を獲得。2003年に日本代表入り。2004年アテネオリンピックに出場し、銅メダル獲得。2008年北京オリンピックでは主将を務め、決勝戦ではライバルアメリカを破って金メダルを獲得。日本リーグでの通算成績は、2017年シーズン終了時点で通算本塁打、通算打点、通算三塁打、通算二塁打、通算安打で歴代1位。

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