インタビュー

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スポーツが持つ「エモーショナルな力」 パラ銀メダリストの生きがい

パラ競泳 富田宇宙選手

視野が狭まるにつれ、諦めざるを得なかった目標や夢

 高校生以来6年ぶりにプールに戻ったのは、障がいがあってもできる運動がしたいという動機だった。3歳から15年続けた水泳は「他のスポーツをするよりアドバンテージがあったし、周囲からも受け入れられやすかった」。パラ競泳選手として活躍しようと思ったわけではないという。

「そもそも水泳って、なるべく息をせずに我慢して頑張ることを競う感じで楽しくないでしょ」と冗談めかして笑うが、「やるとなったら一生懸命やる」タイプ。高校の水泳部では九州大会出場を目指し、仲間と練習に励んだ。その結果、3年生の県高等学校総合体育大会ではリレーで6位となり、同校男子初の九州大会出場を果たした。「達成感もあったし、やりきった」と、水泳に一区切りをつけた。

 2年生で網膜色素変性症を発症し、次第に視野が狭まってはいたが、水泳を辞めたことに「目は関係ないですね」と話す。それ以上に、幼い頃からの「宇宙飛行士になりたい」という目標を諦めなければならないショックの方が大きかった。

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「目が見えにくくて勉強するのも大変になり、進学する気にもなれず、高校卒業後は1年ほどプラプラしていました。当時は見えにくいけど障がい者手帳は取れないという段階で、手帳を取れない生きづらさと取りたくないという感情が混在していたように思います。障がいを上手く受け入れられず、中途半端な状態が続きました。でも、ただジッとしていても仕方ない。視覚に障がいがあっても生計が立てられるシステムエンジニアになることを目指して、大学に行くことにしました」

 日本大学に進むと「とにかく自分が楽しいと思えることをしよう」と、漫画研究会、演劇サークル、競技ダンス部と三足のわらじを履いた。「本当は一番演劇がしたかった」が、視野が狭くなるにつれ、台本の読み合わせや暗転時の行動が困難になり、「最後にダンスが残りました」と振り返る。

 当初ダンスに興味はなかった。だが、友人に付き合って練習に参加すると、意外にも「格好よかったんですよね」と笑顔を浮かべる。男女のペアが繰り広げる、息の合った美しいダンスに「感動しました」と入部。筋肉質の身体をダンス向きのシルエットに変えるため10キロ減量したり、1日10時間ほど練習に打ち込み技術を磨いたり、夢中になった。4年時には主将を務め、母校を12年ぶりの全日本学生選抜競技ダンス選手権出場へ導いた。

 就職後もダンスを続けたが、目の障がいは進行。障がい者として取り組めるスポーツを探していた時にパラ競泳と出会い、2012年に障がい者水泳クラブ「東京ラッコ」へ入会し、6年ぶりに水泳を再開した。1年ほどダンスと両立させたが、「向きが分からなくなったり、ジャッジに視線を投げてアピールできなくなったり、第一線で競技を続けることに限界を感じてやむを得ず引退しました」と話す。

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