インタビュー

int_781.jpg

インタビュー

次世代に繋ぎたい「可能性と選択肢」 日本唯一プロ車いすバスケ選手の想い

香西宏昭選手の未来を決めた二つの運命的な出会い

 野球が大好きな小学6年生・香西(こうざい)宏昭少年が、車いすバスケットボールと運命的な出会いを果たしたのは、今から20年前、2000年のことだった。父親と一緒に出掛けた「千葉ホークス」主催の車いすバスケットボール体験会。初めて乗った競技用の車いすはクルクルと小回りが利く。「なんだ、これは? こんなに速く動けるんだ!」と楽しかったのと同時に、「千葉ホークスの選手たちがすごく輝いているように見えて、かっこいいなと思ったんです」。感動すら覚えた香西少年に、当時千葉ホークス主将だった京谷和幸氏の「やってみないか」という誘いを断る理由は見つからなかった。

 ただ、ためらいがなかったわけではない。千葉ホークスは成人のチームで、一番年齢の近い選手でも一回り上だった。「学校が終わって家に帰り、練習の準備をして出掛けると、そこは大人の世界。子どもだったので勝手に緊張していましたが、選手の方々が可愛がってくださって、徐々に打ち解けていきました」と、懐かしそうに当時を振り返る。

 練習はとにかく楽しかった。「数日前までできなかったことができるようになったり、自分が成長するのがすごくうれしかったですね」と、時が経つのも忘れるくらいに没頭。「もちろん疲れはするんですけど『もっとやりたい。もっとやりたい』と意欲の固まりでした」と、練習にのめり込んだ。

 年が明け、中学生となった香西少年は、その夏、再び運命的な出会いを果たす。今でも「師」と仰ぐ元イリノイ大学車いすバスケットボール部ヘッドコーチのマイク・フログリー氏との出会いだ。当時、千葉ホークスのメンバーだった及川晋平・現日本代表監督に誘われ、特定非営利活動法人(NPO法人)「Jキャンプ」のトレーニングキャンプに参加。海外講師として来日していたフログリー氏の指導に、あっという間に惹きつけられた。

「4日間のキャンプでは、キツイことをしているのに楽しさがあったり、ゲーム感覚でやる練習で自然と鍛えられていたり。中でも印象的だったのは、すごく褒めてくれることでした。その時は『エクセレント!』という言葉を何度も使っていて、こんなに褒められることはなかったな、と。褒められればうれしくて、また褒められたいと意欲が沸く。『この人、違うな』と子どもながらに感じました」

恩師・フログリー氏から学んだ「人としてあるべき姿」

int_78_1

 フログリー氏もまた、香西少年の中に光る才能を見出したのだろう。キャンプ中に「イリノイ大学に来ないか?」とスカウトすると、終了時には『10年後が楽しみで賞』を授与。香西選手が見送りに行った空港でフログリー氏は、紙ナプキンに階段の絵を描いて、上に進む矢印を加えながら、こう言ったという。

「階段を上るように一歩ずつ成長しよう。バスケットボールも、勉強も」

 二つの運命的な出会いから約20年の時を経て、2020年に32歳を迎える香西選手は「最初は、口の上手いオジサンだな、と思ったのが正直なところです」と笑いながら明かす。だが、フログリー氏とメールで交流し続け、高校を卒業すると渡米。英語の勉強に2年半費やした後に編入したのは、あのイリノイ大学だった。ついに、フログリー氏から直接指導を受けられる環境を手に入れた。

 イリノイ大学では全米大学選手権優勝を飾ったほか、3年生だった2012年から2年連続で全米大学リーグのシーズンMVPを獲得。キャプテンとしてチームを率いるまでの信頼を勝ち取った。そして、フログリー氏と過ごした日々は、香西選手をアスリートとして、また一人の人間として大きく成長させた。

「マイクさんはただのコーチじゃなくて『師』だなと思いました。人としてあるべき姿を、すごく学んだんですね。例えば、コート外の自分は、コート内のプレーヤーとしての自分に大きく関わってくる。大学のレポートを提出する時に『ま、このくらいでいいかな』で済ますのと、いい評価を取るために頑張って頑張ってやるのとでは、同じ点数だったとしても意味が違う。その性格や特徴はバスケットボールにも繋がると言うんです。

 もう一つ、結果よりもプロセスをすごく大事にしてくれる人で、選手たちはどんどん挑戦ができたんです。普段の練習から『これを試してみよう』『あれを試してみよう』という環境を、マイクさんが作り出してくれた。選手が取り組んでいる細かい要素、一瞬のフェイクのような動きも見ていて褒めてくれる。すごくうれしかったですね。今でも何かふと迷った時に『マイクさんだったら、何て言うだろう?』と考えることもあります」

最大の挫折となったリオパラリンピック「このままじゃいけないと強く感じました」

int_78_2

 イリノイ大学を卒業後は、車いすバスケットボールが盛んなドイツで契約を結び、プロ選手として活躍。北京大会、ロンドン大会、リオデジャネイロ大会とパラリンピックにも3度出場し、いまや日本代表に欠かせない存在となった。ここまで数々の成功とつまずきを繰り返してきたが、最も大きな挫折となったのは「リオパラリンピックですね」と話す。

 2013年に東京オリンピック・パラリンピックの開催が決まり、これまで以上に注目を浴びて臨んだ2016年のリオデジャネイロ大会。藤本怜央選手とダブルエースと期待された香西選手は副キャプテンにも任命され「日本を引っ張っていく自信はありました」。当時掲げた目標は6位以内だったが、「もっと上に行けるんじゃないか」と思って臨んだ本番。蓋を開けると、予選リーグ敗退の9位に終わった。

「こんなこと言ったら、チームのみんなに『何のぼせてるんだ』と言われるかもしれないですけど、僕としては自分の判断ミスやスキルのなさで負けたと思っています。パラリンピックは連日試合がある。負けても落ち込んでいる姿を周りに見せないように元気に振る舞っても、一人になると試合での悪いところが頭に浮かんできて、翌日の試合でまた同じようなミスをする。そういうことが続いたんですね。予選敗退で目標が達成できなかった時、このままじゃいけないと強く感じました。このままじゃ、東京パラリンピックでメダルを獲る以前に、自分が代表に選ばれないかもしれないって」

 ブラジルから帰国後、歩み始めたのが「自己成長の道」だ。プレーに関わるあらゆる環境を見直した。栄養士と相談しながら食事に気を配り、日本代表のメンタルコーチを務める元アーティスティックスイミング選手でメンタルトレーニング指導士の田中ウルヴェ京氏にパーソナルトレーニングを依頼。自分なりの成長を感じてはいるが、「リオデジャネイロでの悔しさを東京で晴らすのが、僕が今、やろうとしていること。だから、まだ打開している最中なんです」と、臥薪嘗胆の日々だ。

 これまで欧米勢の強さが目立った車いすバスケットボールだが、ここ数年は各国の戦力が拮抗。日本も入賞、そしてメダル獲得が夢物語ではない位置まで実力をつけてきた。2021年に控える東京パラリンピックは、車いすバスケットボールの認知度を高める絶好の機会。香西選手は競技が持つ二つの魅力を、ぜひ感じ取ってほしいという。

「一番の醍醐味は持ち点制度だと思います。それぞれの選手は障がいのレベルによって持ち点が決まっていて(1~4.5点で、障がいの程度が重いほど持ち点が小さい)、試合中はコート上の5人の持ち点は合計14.0点を超えてはいけません。選手の障がいの特徴だったり、その障がいによるプレーの特徴だったりを、お互いが理解し合いながら戦略に練り込んでいく。ここが一番面白いところだと思います。弱点かと思われる障がいの重い選手が、誰かを生かすプレーや自分が生きるプレーをする。これは普段の社会にも通じるものがあると思うんです。みんなで支え合ったり、お互いのいいところを認めあったり。僕が一番、学んでいるところでもあります。

 もう一つは『コート上の格闘技』と言われるほど激しい競技なんですが、すごく繊細な車いす操作がそこにはあるんです。ガツンとぶつかりに行くだけではなく、ほんの数ミリ、数センチの車いす操作が隠されている。特に、日本人選手は職人気質っていうんでしょうか。細かい操作はすごく上手なので、本当は繊細だという部分も見ていただきたいですね」

「人と人とを繋いでくれるものが、スポーツにはあるんじゃないかと思うんです」

int_78_3

 新型コロナウイルスの世界的大流行に際し、「世界でたくさんの方が亡くなっているのに、自分はスポーツをやっている場合なのかと、正直思ってしまうこともあります」と複雑な心境を明かす。だが同時に、人と人とが直接交流しづらくなった今だからこそ、スポーツが果たす社会的役割があるのではないかとも思う。

「人と人とを繋いでくれるものが、スポーツにはあるんじゃないかと思うんです。例えば、バスケットをして得られる達成感を仲間と分かち合ったり、同じ目標を持って繋がることができたり、そういうことをさせてくれるものがスポーツだと思うんです。毎年、東京で国際親善試合があるんですが、会場でお客さんがバルーンスティックを使ってニッポンコールをしてくれた時、体育館が一体となる感じがすごくうれしい。ラグビーのワールドカップで『ワンチーム』という言葉が流行語になりましたが、スポーツの価値ってそういうところにあるんじゃないかと思っています」

 スポーツがもたらす一体感は、会場にいる人たちだけが味わえるものではない。メディアを通じて、日本、そして世界の人々を「ワンチーム」で繋ぐ。そういった繋がりこそ、世界が直面する困難な状況を乗り切るために、大きな力を発揮すると信じている。

 香西選手には、もう一つ繋ぎたいものがある。それが中学1年生の時、自身が「Jキャンプ」で手に入れた「可能性と選択肢」だ。

「今、僕はNPO法人『Jキャンプ』のスタッフでもあるんですが、実は『Jキャンプ』はスポーツくじの助成金を使わせていただいて車いすバスケットボールクリニックを運営したことがあるんですね。僕は子どもの頃、『Jキャンプ』に参加したから恩師のマイクさんにも会えたし、ドイツへの道にも繋がった。未来ある子どもだった僕に、可能性と選択肢を与えてくれたのが『Jキャンプ』であり、スポーツくじの助成金だったと思っています。ですので、今度は僕が感じたようなことを次の世代に与えたい気持ちがあり、『Jキャンプ』のスタッフになりました。僕が今まで歩んだ道のりには、可能性と選択肢がたくさんあったと思います。それを、未来ある子どもたちに繋いでいきたいなと」

 先日、「香西選手に憧れて55番をつけています」と話す高校生プレーヤーに出会ったという。自分に憧れ自分と同じ背番号をつけている。「その時、すごくハッとしたんですね」と言葉を続ける。

「すごくうれしかったんです。僕にはそういう役割もあるんだなって。今までなんで気付かなかったのか分からないんですけど、プロ選手として活動する中で、そう思ってくれる子に出会えたのはすごくうれしかった。まだまだがんばらなきゃって思いましたね」

 まずは東京パラリンピックで、リオデジャネイロの悔しさを晴らす。大舞台で懸命にプレーする姿は、見る者の心と心を繋いでくれるはずだ。

(リモートでの取材を実施)

int_78_01

香西 宏昭こうざい ひろあき

1988年7月14日、千葉県生まれ。先天性両下肢欠損の障がいを持つ。12歳で車いすバスケットボールに出会い、千葉ホークスに入団。2001年にNPO法人Jキャンプが主催する「第1回札幌キャンプ」に参加し、後に恩師となる元イリノイ大学車いすバスケットボール部ヘッドコーチのマイク・フログリー氏と出会う。早くから頭角を現し、高校1年生でU-23日本代表に選ばれると、2005年には世界ジュニア選手権大会で銀メダルを獲得。高校卒業後に渡米し、2010年にイリノイ大学に編入すると、全米大学選手権優勝、2度の全米大学リーグのシーズンMVP受賞など輝かしい成績を収めた。2013年にドイツ・ブンデスリーガのハンブルグとプロ契約を結び、日本人二人目のプロ車いすバスケットボール選手となる。パラリンピックにはこれまで3度出場。東京パラリンピックで4度目の出場となる。12年間のアメリカ・ドイツを拠点とした活動をメダル獲得のために日本に移す。現在は「NO EXCUSE」のメンバーとして活躍する。

アンケートにご協力ください。

Q1

本記事を読んで、スポーツくじ(toto・BIG)の収益が、日本のスポーツに役立てられていることを理解できましたか?

とても理解できた
なんとなく理解できた
理解できなかった
Q2

スポーツくじ(toto・BIG)の取り組みに共感できましたか?

とても共感できた
なんとなく共感できた
共感できなかった
送信