インタビュー

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インタビュー

「走ることが幸せ」 ブラインドマラソン世界記録保持者が明かす笑顔の理由

リオデジャネイロパラリンピックで銀メダルの道下美里選手

 満開のヒマワリのような笑顔の持ち主だ。

「多分、純粋に走ることが幸せだなと思って走っているので。日常の些細な人からの声掛けも含めて、障がいがあることによって得られる幸せを、常に感じています。そういう喜びや、人に支えてもらっている幸せという気持ちが多分、笑顔になっているのかな」

 そうやって少し照れくさそうに語るのは、ブラインドマラソンランナーの道下美里選手だ。144センチと小柄ながらトレードマークの高速ピッチ走法を武器に、2014年の防府読売マラソン大会で女子T12クラス(重度弱視)の世界新記録を打ち立てると、2016年のリオデジャネイロパラリンピックでは銀メダルを獲得。2020年2月の別府大分毎日マラソン大会では自身が持つ世界記録を塗り替えるなど、2021年に控える東京パラリンピックでは金メダル候補に挙げられている。

 周囲からは“追われる立場”に見えるが、道下選手自身にその意識はない。

「追われる立場とは、実はあまり思っていなくて、あくまでも私は自分を超えたいんですよ。過去の自分を超えたい。負けず嫌いなんですけど、今は自分と戦っているという感覚。弱い自分が日々出てくるので」

 そんな道下選手のモチベーションを保ってくれるのが「チーム道下」の存在だ。リオデジャネイロパラリンピックでは、伴走者をはじめサポートしてくれたメンバーは、100人近くにも達した。

「仲間というのが、私にはすごく大きなキーポイント。自分が行き詰まった時に話を聞いてくれる人、アドバイスをくれる人、そこに道標を出してくれる人、叱ってくれる人……。『チーム道下』って、本当に多彩なメンバーが揃っているんですよ。なので、そういう方たちに知恵をもらったり、モチベーションを上げてもらったり。仲間がいると目標が明確になるので、それに対して常に目を向けて取り組んでいくことを心掛けています」

 それでも、やはり人間、モチベーションが上がらない時もある。そんな時は「自己啓発」で気合を入れる。

「練習前にトイレに入って、できない自分をまず洗い出すんです。その後で自分に語りかけるんです。なんでできないと思うんだろう。でも、今までこういうことがあっても乗り越えて来られたよね。やって来られたよね。私には絶対できるんじゃない? できるはず。絶対できる!って確信に変えてトイレから出るんです。自分自身を奮い立たせるような言葉をかける。気持ちが下がると、どうしてもマイナスな言葉を選んでしまいがちですが、それをプラスの発想に変えて、自分自身で言葉を発する。やっぱり言霊という言葉があるので」

 もう一つ大切にしているのが「いろいろな引き出しを持つこと」だ。自分のために走って行き詰まったら誰かのために走る。誰かのために走ることに疲れたら自分のために走る。走り始めた当初のことを思い出す、などなど。「モチベーションを高めるためのいろいろな引き出しがあれば乗り越えていけるかなと」。気持ちを上向きに変える術はバリエーション豊富だ。

競技生活を支えてくれた恩師・安田祐司氏、マラソン転向も後押し

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 今では、競技者として常に成長を追い求める日々を過ごすが、走り始めたきっかけは、意外にもダイエットだった。小学生の時に膠様滴状角膜ジストロフィーを発症し、中学生になってから右目を失明。24歳の時に左目の視力もほとんど失った。

「目が不自由になるとどうしても運動不足になってしまったり、目が見えないことでのストレスで食に走ってしまったり。ちょっとポッチャリした体をどうにかしたいと思って、ダイエットで走り始めました」

 中学校では陸上部に所属。元々走ることは好きだったが、当時とは状況が違う。そんな道下選手の背中を押したのは、26歳で入学した盲学校の先生と仲間だった。

「体育の授業で、走ることは目が不自由でもできると教えてもらいました。ガイドランナーさんをつけたり、音源に向かって走ったり。最初はグラウンドでしか走れなかったですが、周りの仲間が徐々に外に連れ出してくれました。外に出たら段差があるし、路面が変われば砂利で怖いし、毎日疲労感やストレスも多かった。でも、徐々に怖さが払拭されました」

 ここで恩師・安田祐司氏にも出会った。走り始めて間もない頃に出場した大会で、道下選手は50代の女性に負けた。「それがすごく悔しくて、そこから火が着きました」。今では笑いながら振り返るが、負けず嫌いの心に火が着いた道下選手を県大会にエントリーさせ、全国障害者スポーツ大会での優勝へ導いたのは、他でもない安田氏だった。

 当時、専門としたのは800メートルや1500メートルの中距離。「単純で無知だったので、全国で1位だったら次は世界かなって勝手な勘違いをして夢が膨らみました(笑)」と、盲学校2年生の時にはパラリンピック出場を目標に掲げた。大会で好成績は残したが、北京パラリンピックの代表選考に落選。一時は走ることさえ、やめてしまった。

「でも、毎日当たり前のように走っていたのがなくなると、ポッカリ穴が空いたような気持ちになって、趣味でもいいから走ることを続けたいという気持ちが沸いてきたんです。その時、地元開催のフルマラソンがあって、安田先生に相談してみたら、以前から長い距離でも対応できる能力があるんじゃないかと感じていたらしく『やりたいなら手伝ってやるぞ』と後押ししてくれました」

 恩師の言葉でマラソンに転向すると、ここから二人三脚で再びパラリンピックを目指す旅が始まった。紆余曲折を経ながらもリオデジャネイロパラリンピックでは見事、代表権を獲得。本番では銀メダルを獲る快挙を成し遂げた。

「諦めなくて良かったと思いました。弱い自分がすごくいっぱいいたので、その弱い自分を支えてくれた人たちに『一緒にここまで歩んできてくれてありがとう!』という感じでした」

伴走者は「戦友」 様々な形で支えるチーム道下に「夢を見させてもらっています」

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 ブラインドマラソンに伴走者は欠かせない。福岡県を拠点に練習する道下選手は、通常は1週間に10人の伴走者のサポートを受けている。競技者と伴走者をつなぐのは長さ50センチのロープだ。“きずな”とも呼ばれるロープで繋がる伴走者を、道下選手は「戦友」と呼ぶ。

「チーム戦なんですね。伴走者の声掛けのタイミングが違えば怪我をしてしまうこともあるし、指示が遅ければ(時間の)ロスにも繋がる。みんなでやり遂げた達成感が大きいですよね。私は伴走者は戦友だと思っています。命を預けているんですよね、私。ロープを持って走るということは、接触や転倒のリスクがもちろんあります。その中で導いてもらいながら頑張る。伴走者の方は私の見え方を家族以上に熟知していて、信頼関係があるんですね」

 伴走者も含め、今では競技を続ける上でなくてはならない「チーム道下」だが、文字通り一からのスタートだった。2010年に福岡県に転居した道下選手は、まず大濠公園ブラインドランナーズクラブ(OBRC)を訪れ、「伴走してくださる方はいませんか?」とサポートを求めた。練習会に参加し、仲間が増え、気付けばチーム道下が立ち上がっていた。「地域性なのか、みんなで一緒に何かをしようと盛り上げてくれました」。今ではみんな、かけがえのない仲間だ。

 この10年で障がい者スポーツが広く普及しつつあることも感じている。OBRCに参加した当初は、ブラインドランナーと伴走者を合わせてメンバーは30人ほどだったが、今ではブラインドランナーは約50人、練習会には常に50~60人の伴走者が集まるという。「趣味で走る人は増えているんですよ」という一方で、競技者として上を目指す選手をサポートする環境作りも欠かせない。ブラインドランナーも参加するマラソン大会の開催など、障がい者がスポーツに親しむための環境整備に、スポーツくじ(toto・BIG)の収益による助成金は様々な形で役立てられている。

 競技生活に専念できるよう、ボランティアも含め様々な形で支えてくれている人々に感謝の気持ちを忘れない道下選手は「みんなに夢を見させてもらっています」と話す。自分は恵まれた立場にあると実感するからこそ、こんな願いも抱いている。

「競技者として活動するには、やっぱりお金がかかります。周りを見た時に障がい者スポーツですごく活躍している選手は、そういった環境が整っている選手が多い気がします。環境によって夢を見られるか見られないかの線引きはないのが理想です。なので(助成金などで)スポーツの環境が整うと、平等に夢を見る機会を与えてもらえる。頑張れば支えてもらえるというのは、選手にとってのモチベーションにもなると思います」

日本で進む障がい者への理解「昔に比べてバリアがなくなってきた」

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 東京パラリンピックが開催される影響か、最近では街で声を掛けられることが多くなったという。「昔に比べてバリアがなくなってきたなと感じます」と話し、こう続けた。

「少し視力があるので、コンビニで売っているものを頑張って見ようとしていたら、白い杖をついている私の後ろから『ひじき煮ですよ』と、さりげなく声を掛けてくださる方がいました。昔は、目が不自由だとスポーツジムで入会を断られることもありましたが、今は『どんなサポートがあったら入会できますか?』と聞いてくださいます。東京パラリンピックを前にして、障がい者をどうサポートするのか、自治体や企業が積極的に取り組んでくれている成果なのかなと思いますね」

 かつては、日本が社会として障がい者に対する理解が遅れているとされた時期もあったが、道下選手は「日本は組織作りがしっかりしている」と感じているという。

「2018年にアメリカで人権について学ばせていただく機会がありました。私はスポーツ環境という視点から、いろいろな地域での取り組みを知るため、選手と話をさせていただくこともありましたが、アメリカは州によって格差が激しいんですね。それに比べると、日本は組織が充実しています。ほとんどの都道府県に障がい者スポーツ協会があります。なので、本気で競技をやりたければ、自分で門を叩き、努力して上に行けるという組織がしっかりある。こういう点は世界にアピールしてほしいと思います」

 東京パラリンピックをきっかけに、障がい者スポーツへの注目は高まるだろう。道下選手は「障がいがあると、いろいろな弊害があったり、周りが心配したり、一歩踏み出せない人が多いと思います。でも、みんなが知って関わることで、実はそんなに難しいことではない(と気がつく人が増える)かもしれない」と話す。

「スポーツを通すと、障がい者と健常者はバリアなく接することができます。ぜひ東京パラリンピックをきっかけに障がい者への理解が深まって、チャレンジしたいと思う人がもっともっと活躍できるようになれるとうれしいですね」

 東京パラリンピックをきっかけに、日本における障がい者スポーツの在り方はどう変わるのか。道下選手もまた、金メダル獲得の夢を実現させ、大きな影響を与える一人となっているかもしれない。

(リモートでの取材を実施)

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道下 美里みちした みさと

1977年1月19日、山口県生まれ。三井住友海上火災保険株式会社所属。小学生で膠様滴状角膜ジストロフィーを発病。中学生で角膜移植手術を受けたが右目を失明する。短期大学卒業後に調理師の免許を取得するが、24歳で左目の視力もほとんど失う。26歳から通い始めた盲学校で走り始め、恩師・安田祐司氏と出会う。中距離でパラリンピック出場を目指すが、北京パラリンピックの代表選考に漏れ、マラソンに転向。すぐに頭角を現し、2014年の防府読売マラソン大会で世界新記録を打ち立てる。2016年のリオデジャネイロパラリンピックで銀メダルを獲得すると、2020年2月の別府大分毎日マラソン大会では自身が持つ世界記録を更新する2時間54分22秒で優勝。東京パラリンピックでは金メダル候補と目されている。

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